2013年02月11日

日本の100名城!<沖縄地方2>

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える
設立40周年の記念事業の一環として、
2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、
歴史や建築の専門家などにより、
観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、
復元の正確性などを基準に審査の上選定、
2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

今回で百名城も最後となります、沖縄地方(100番)です。


100番 首里城

100.首里城1.jpg 首里城

首里城は、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす
丘陵地にあった城です。

琉球王国の王城で、沖縄県内最大規模の城でした。
戦前は正殿などが国宝でしたが、1945年の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により
完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っています。
1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、
本格的な復元は1980年代末から行われ、
1992年に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元されました。
その後2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」として世界遺産に
登録されましたが、復元された建物や城壁は世界遺産として認められていません。

周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、
第二尚氏の菩提寺である円覚寺跡、国学孔子廟跡、
舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂などの文化財があります。

【歴史・沿革】

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首里城の創建年代は明らかになっていません。
近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、
三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されています。
おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期の
他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられます。
尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、
首里城を王家の居城として用いるようになりました。
同時に首里は首府として栄え、
第二尚氏においても変えられることはありませんでした。

史書で記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失していて、
その度に再建されてきました。
その度に木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、
将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしています。
一度目の焼失は1453年に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した
王位争いであり、城内は完全に破壊されました。
二度目の焼失は1660年のことであり再建に11年の年月を要しました。
しかし1709年に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失しました。
この時は財政が逼迫していて、
1712年に薩摩藩から2万本近い原木を提供されました。
現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された
1715年から1945年までの姿を基にしています。

1879年の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、
正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、
日本陸軍の第6師団の軍営として、その後は首里区に払い下げられ、
学校などとして利用されました。

王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、
老朽化が激しく崩壊寸前の状態になりました。
既に門のいくつかは取り壊されていて、正殿の取り壊しも検討されました。
しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、
昭和初期に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、
県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られました。

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太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り
総司令部を置いたこともあり、1945年5月3日から3日間に渡り
アメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされます。
さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、
琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊されました。
宝物庫は奇跡的に戦災を免れましたが、中の財宝は全て米軍に略奪されました。
戦後しばらくして一部が返還され、
また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもあります。
また近年尚家が保有していた琉球王国関連の資材が寄贈され、
沖縄県立博物館・美術館などで保管・展示されています。

戦後、首里城跡に琉球大学が置かれたことで、
多くの遺構が撤去あるいは埋められましたが、
首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の彼岸でした。

1958年、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など
周辺の建築から再建が始まりました。
1972年、日本復帰後に国の史跡に指定され、
城の入口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建されました。
1979年に琉球大学が首里城跡から移転すると1980年代に県および国による
首里城再建計画が策定され、本格的な復元が始まりました。
1989年11月より、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、
古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の
装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まりました。

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1992年11月3日には正殿を中心とする建築物群、
そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園しました。
現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられ、
正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われています。
2000年には「首里城跡」として他のグスクなどとともに
「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」に名称で世界遺産に登録されました。

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【構造】
他の日本の城とは異なり、首里城は中国の城の影響を大きく受けています。
門や各種の建築物は漆で朱塗りにされており、屋根瓦には初期は高麗瓦、
後に赤瓦が使われ、各部の装飾には国王の象徴である龍が多用されました。
また、戦乱のない琉球王朝時代に再建されていることもあり、
軍事目的よりも政治の中心地としての役割を中心にして設計されています。
城郭は他のグスク同様、琉球石灰岩で積み上げられています。

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首里城は外郭と内郭からなり、御庭と呼ばれる広場に面して立つ
正殿・北殿・南殿・奉神門などの建物は内郭に集中しています。
内郭には瑞泉門、漏刻門など九つの門が、
外郭には歓会門、久慶門など四つのアーチ門がありました。
瑞泉門には「龍樋」という名の泉があり、
竜の頭の形をした銅製の樋から水が流れ出しています。
ここには「中山第一甘露」の石碑があり、中国の使臣が残した碑刻があります。

瑞泉門を通り、漏刻や日時計で時間を計測していた漏刻門を抜けると、
司法や寺社宗廟関係の機関が入居していた楼閣・広福門に至ります。
広福門の内側は、系図座・用物座や、御庭につながる奉神門、
祭祀空間である「京の内」に囲まれた下之御庭が広がります。
ここは御庭に入る前の控えの場であり、
首里城の10ある御嶽のひとつ・首里森御嶽があります。
「君誇御門」とも呼ばれた奉神門をくぐると
正殿などに囲まれた御庭が広がります。

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正殿の前には、家臣らが謁見したり中国からの冊封使を
迎え入れたりするための御庭と呼ばれる広場が設けられています。
それを取り囲むように行政施設である北殿、儀礼などに用いられた南殿、
御庭への入口となり行政施設も入っていた奉神門が建てられています。
さらにそれを各種の門・城壁が取り囲む形になっています。これらの構造には、
中国の紫禁城との類似性も指摘されています。
南殿は薩摩藩の接待のため使われたので、
ここのみ和風の意匠が用いられていました。
王の執務する建物であった書院及び鎖之間は南殿の隣にあります。
書院・鎖之間庭園は琉球のグスク内にある唯一の庭園で、
石灰岩の岩盤を生かしてソテツなどを配しており
中国の使節からも名園と評価されていました。
遺構の保存状態もよく、復元工事の後2008年8月に公開されました。
2009年7月には書院.鎖之間庭園ともに国の名勝に指定されました。

王の居住する中心部は正殿と呼ばれ、別名「唐破風」と呼ばれました。
中には一階と二階の両方に御差床という玉座が設けられ、
二階の御差床の上には清国皇帝から贈られた扁額が飾られていました。
沖縄戦で全て失われましたが、康煕帝の贈った「中山世土」の扁額だけが
本人の筆跡や落款を再現した上で復元され飾られています。

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正殿裏側は「御内原」と呼ばれる私的な生活空間に当たります。
王の住む「二階御殿」が再建されているほか、
王妃らの寝室があり国王以外の男性は入れなかった「黄金御殿」、
王位継承の儀式を行う「世誇殿」などかつて存在した
建物の復元のための発掘や建設工事がすすんでいます。

本来の木造建築として復元された建物は正殿のみです。
正殿は、沖縄本島北部の山から大木を運ぶ「木曵式」などの儀式が行われた後、
台湾などからの木材を用いて再建されました。
他の建物ではコンクリートを用いるなど外観のみの復元と言えます。
旧来の城壁は一部残っており、新しい城壁の建設の際に発掘され利用されたため、
地表近くに旧来の城壁の姿を見ることができます。
これが唯一残ったオリジナルの首里城の遺構です。

【宗教的役割】
首里城は政治・軍事の拠点であるとともに、琉球有数の聖域でもあります。
以前は城内には十ヶ所の御嶽があり、また首里城内郭の南側の大きな範囲を
「京の内」と呼ばれる聖域が占めていました。
「京の内」は十ヶ所の御嶽のうちの数カ所と、
鬱蒼とした大木の森や岩があるだけの場所でしたが、
この森こそが首里城発祥の地であり、
首里城を国家の聖地とさせている重要な場所だったのです。
聞得大君をはじめとする神女たちが京の内で祭祀を行っていましたが、
その祭祀の内容やはっきりとした京の内内部の様子は
今だによく分かっていません。
現在ここで行われた祭祀の研究に基づき公開に向けての
整備工事が進められています。

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敷地内の御嶽等は単なる遺跡ではなく、現在に至るまで信仰の対象でした。
琉球大学にあった頃には、立ち入りが自由であったため、
その構内にあちこちの拝所には常に線香やウチカビが供えられ、
主として女性の拝む姿がよく見られたものです。
しかし、首里城の復元によって無断の立ち入りが禁止となってしまいました。
このため「首里城の建物は復活しましたが拝所としては破壊された」との
声もあります。

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[所在地]
沖縄県那覇市首里
[交通アクセス]
モノレール:那覇空港から「ゆいレール」に乗車、「首里」駅下車、
   徒歩約15分で守礼門へ。
   首里駅から路線バス(首里城下町線8番)も出ていて
   「首里城前」バス停下車、徒歩約3分で守礼門へ。
車 :那覇空港から国道331号線へ出て、那覇市中心部へ、国道58号線に入り、
   泊交差点を右折、県道29号線を直進して首里方面へ。
   那覇空港自動車道「豊見城・名嘉地IC」を利用の場合は、
   「南風原北IC」から国道329号線利用。
バス:市内線1・17番、市外線46番に乗車、首里城公園入口バス停下車、
   徒歩約5分。
   市内線9番、市外線25番に乗車、「山川」バス停下車、徒歩約15分。
タクシー:
   那覇空港から約10q(所要時間約40分〜60分)
   那覇市内(国際通り三越前)から約4q(所要時間約15分〜25分)
   識名園から約3q(所要時間約10分〜20分)

今回で日本の100名城は最後になります。
我々の身近に城が存在するので普段は何も思いませんが、
城は日本が世界に誇れる建築物なのです。
しかも、地形や立地条件に合わせて独自に進化した城が多く存在します。
外国の建造物には感嘆の声をあげる人たちも
日本の城を見て賞賛を送る人はほとんどいません。
非常に悲しいことですが、それが現実です。
こんなに素晴らしい建造物が身近に見られる幸運を、
我々はもっと大事にするべきではないでしょうか。
posted by 旅んちゅ at 16:36| 滋賀 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月28日

日本の100名城!<沖縄地方1>

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える
設立40周年の記念事業の一環として、
2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、
歴史や建築の専門家などにより、
観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、
復元の正確性などを基準に審査の上選定、
2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

今回から、沖縄地方(98番〜99番)です。


98番 今帰仁城

98.今帰仁城.jpg 今帰仁城

今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう)は、
14世紀に琉球王国三山時代の三山の一つ・北山王の居城だったところです。
別名を北山城とも呼びます。

城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多量に出土し往時の繁栄が伺えます。
北山は尚巴志に1416年に滅ぼされますが、
北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、
北山監守が派遣されました。
1609年の薩摩藩による琉球侵攻の際には、その攻撃の第一目標となりました。

現在も石垣などの遺構の整備が進み、
今帰仁城跡として1972年5月15日に国の史跡に指定されています。
門から城の中心部へと向かう階段の左右にはカンヒザクラの並木があり、
毎年1月末〜2月始めに開花します。
本部町の八重岳などと並び、沖縄県の桜の名所として知られています。
城内には志慶真乙樽歌碑や山北今帰仁城監守来歴碑記などの碑もあります。

2000年11月に首里城跡などとともに、
琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産に登録されました。

[所在地]
沖縄県国頭郡今帰仁村
[交通アクセス]
空路:那覇空港から車で那覇ICより高速道路にのり、許田ICで降り、
   国道58号線を経由して約1時間40分。
バス:高速バスまたは20番系統(名護西線)で名護バスターミナルまで。
   バスターミナルで66番系統(本部半島循環線今帰仁廻)で今帰仁へ、
   下車徒歩約15分。


99番 中城城

99.中城城.jpg 中城城

中城城(なかぐすくじょう)は、15世紀の琉球王国・尚泰久王代、
護佐丸のグスクとして知られています。
城壁の増築により現在見られる規模になったと考えられますが、
築城の時期は不明です。

中城城は当時貿易港であった屋宜港から2qほど離れた
標高約160mの丘陵上にあり、
中城村の北西から北中城村の南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、
グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られています。
石垣の上に立つと西に東シナ海、東に中城湾、
さらには洋上の島々まで見渡せます。

[所在地]
沖縄県中頭郡北中城村・中城村
[交通アクセス]
空路:那覇バスターミナルより
バス:30番・泡瀬東線/58番・馬天琉大泡瀬線(東陽バス)、
   52番・与勝線(沖縄バス)で「中城小学校」バス停下車徒歩約30分、
   「久場崎」バス停下車徒歩約30分、「安谷屋」バス停下車徒歩約10分。

毎日寒いですね。
朝起きるとは雪が10センチくらい積もっていました。
でも、沖縄や小笠原は暖かいんでしょうね。
もっと南の方は暑いんでしょね。
日本でも夏は暑い暑いって言っていたのに、
冬になると寒い寒いってほんと我がままなんですね。
でも、寒い時に暖かいところへ、暑い時に涼しいところへって
一番の贅沢だと思いませんか。
冬に部屋を無茶苦茶暖かくしてアイスクリームを食べるとか、
庶民ができるほんの些細な贅沢ですよね。

なんか、与党が自民党になってから円は下がって、
大企業とか輸出業とかいいかもしれませんが、
私たちの庶民は、円が高いときは安く海外に行けて喜んでいたのに、
もう高くっていけません。
しかも、ガソリンやその他の物価も上がって、
おちおち遊びにもいけません。
こうなったら、節電とお金の節約を今以上にやるしかありません。
無駄なものは買わない、遊びには行かない、
これからは家の中を中心に楽しむ時代なのかもしれませんね。

レジャーは、公園とか海とか山がお勧めですよ。
お金を使わず、心が豊かになる休日を過ごしましょう。
posted by 旅んちゅ at 10:47| 滋賀 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月14日

日本の100名城!<九州地方4>

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える
設立40周年の記念事業の一環として、
2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、
歴史や建築の専門家などにより、
観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、
復元の正確性などを基準に審査の上選定、
2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

今回も、九州地方(95番〜97番)です。


95番 岡城

95.岡城.jpg 岡城

岡城は、竹田市の天神山に築かれた平城で、
別名、臥牛城・豊後竹田城とも呼ばれます。

岡城が築かれた天神山は標高325m、比高95m、城域は東西2500m、
南北362m、総面積は23万4千平方メートルに及びました。

伝承では、文治元年に緒方惟義が
源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが初めであるといいます。
その山城は、南北朝時代の建武元年に
後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、
岡城と名付けられたとされています。
「豊後国志」によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年以降のことで、
岡城に入る前は直入郡にあった木牟礼城を居城としていたそうです。

天正14年、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、
薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、
岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、
親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けています。

豊臣秀吉の時代の文禄2年、
文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、
大友氏重臣の親次も岡城を去ることになりました。
翌、文禄3年、播磨国三木から中川秀成が移封され、
入城後に3年がかりで大規模な修築を施しました。

城は、中川秀成により縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、
石垣普請に山岸金右衛門などが携わり改修されました。
志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、
城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けました。
本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった
下原門に加えて近戸門開き大手門を東向きの下原門から
現在見られる西向きの位置に改め、3口としました。
また、城下町は志賀氏時代の狭田に加えて西方に竹田町が整備されました。
2代久盛の代には清水門が整備され、
3代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営しています。
岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、家事などの被害を多く受け、
特に8代中川久貞の明和年間には城内の大半を焼く大火が起きています。

明治維新後、廃城令によって廃城とされ、
明治4年から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、
現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみです。

[所在地]
大分県竹田市大字竹田岡
[交通アクセス]
鉄道:JR日豊本線「豊後竹田」駅より
   竹田交通バス「大久保経由緒方・三重行き」で約4分、
   「岡城入口」下車、徒歩約10分。
車 :大分道「大分光吉IC」より約40q、約1時間。


96番 飫肥城

96.飫肥城.jpg 飫肥城

飫肥城は、伊東氏飫肥藩の藩庁だったところで、
飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城です。

【沿革・戦国時代】
飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした
土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、
飫肥院とも呼ばれていました。
時代は下って、室町時代末期の長禄2年、九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、
鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、
志布志城主で島津氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させました。

戦国初期は薩摩国の戦国大名島津氏の居城で、はjめ新納氏が治めていました。
1484年に日向中北部を支配する伊東氏が飫肥に侵攻し、
当時の当主である伊東祐国が戦死すると、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、
領土の割譲と戦の原因になった飫肥城主の交代によって急場を凌ぎました。

しかし、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、
その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなりました。
1597年、念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐は、
子の祐兵に飫肥の地を与えました。
ところが、1572年に伊東氏が木崎原の戦いで没落すると、
日向国全土を島津氏が治めるところとなり、
飫肥も再び島津氏の支配に復帰しました。

伊東氏の没落によって両氏の争いに終止符が打たれたかに思われましたが、
飫肥を失った伊東祐が羽柴秀吉に仕え、九州征伐に参加した功により、
再び飫肥の地を与えられることとなりました。
江戸期、伊東氏は豊臣系の外様大名という微妙な地位ながらも
飫肥の地で家名を全うしましたが、
ひとえに関ヶ原の合戦で東軍側にたった数少ない九州大名だったことが
物をいったのだと思われます。

祐国が飫肥に侵攻した1484年から祐兵が豊臣大名として
飫肥城主となった1587年までは103年の長きに及びます。
これだけの長期間に渡って伊東・島津氏という2つの勢力が一貫して
1つの城を巡って争い続けた例は、
日本の戦史において希有な例と言えるでしょう。

【沿革・現代】
近年では1978年に大手門が復元されましたが、
本丸跡には日南市立飫肥小学校が建てられています。

[所在地]
宮崎県日南市飫肥
[交通アクセス]
鉄道:JR日南線「飫肥」駅からバスで「飫肥城下」下車。
車 :宮崎道「田野IC」から県道28号経由県道430号で。


97番 鹿児島城

97.鹿児島城.jpg 鹿児島城

鹿児島城は、鹿児島では一般的に古くから「鶴丸城」と呼ばれています。
「鶴丸」の呼び名の語源は島津家の家紋が「鶴丸の紋」であったことによります。

江戸時代初期に島津氏によって築かれた、
上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城です。

城山は、南北朝時代には「上之山城」および「上山城」という上山氏の居城でしたが、
後に島津氏に明け渡され、上山氏は桜島に移っています。
その後、島津氏は城山の東麓に屋形を築いて居城しました。
麓の屋形には石垣が築かれましたが公称「77万石」の大名の城としては
天守など高層建築や高石垣などは築かれず、
明治時代に訪れた本富安四郎は著書「薩摩見聞記」で「不思議」と評しています。
これには江戸幕府に対する恭順の意味があったとされています。
その代わりに、島津氏は中世式の山城を各地に残し、
113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていたとされています。

本城である鹿児島城は北に本丸、南に二の丸が位置していましたが、
単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城でした。
そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていました。
初代の城代として島津歳久の孫の常久が任命されて居住していましたが。
常久が早生した後は次の城代は任命されず、
城山自体が聖域として立入禁止区域となりました。

明治6年には「御楼門」という大手口の櫓門と1重2階の兵具所多聞櫓、
角櫓、書院造の御殿などがありました。
御楼門と兵具所多聞櫓、角櫓の様子については
明治初期の撮影された写真が現存しています。

[所在地]
鹿児島県鹿児島市城山町
[交通アクセス]
鉄道:JR日豊本線「鹿児島」駅から徒歩約12分。
バス:「鹿児島」駅からバスで「市役所前」下車、徒歩約5分。
車 :九州道「鹿児島北IC」から国道3号で。

正月も終わってちょっと気の抜けて時期ですね。
大学生の方は春休み前の後期テストがやってきますし、
受験の方は最後の追い込みの時期ですね。
私たちのような勉強と縁のないものは、
忙しい年末を過ぎ、暴飲暴食の正月を過ぎると気が抜けてしまって、
やる気の起きない時期にさしかかります。
おまけに冬の寒さも手伝って、
外に出かけようという気にもならないこの頃です。
でも、1月は空気が澄んで景色がはっきり見える季節でもあるのです。
しかも、寒い時期の温泉は格別のものがあります。
出不精を克服して今こそ出かけるときです。
posted by 旅んちゅ at 17:04| 滋賀 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする