2015年08月03日

日本の奇祭50「新居浜太鼓祭り・田名部祭り・熊谷うちわ祭」

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。
故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、
外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。
これを世の人は「奇祭」と呼びます。

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」
「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、
奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。
よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り
(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、
ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、
開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。
その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、
祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

特に言う必要はないと思いますが、
以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、
れっきとした郷土芸能であり、
日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

今回は、愛媛県の新居浜太鼓祭りと青森県の田名部祭り、埼玉県の熊谷うちわ祭です。


新居浜太鼓祭り(愛媛県新居浜市)

四国三大祭りの一つに数えられる新居浜太鼓祭り。
その起源は古く平安時代あるいは鎌倉時代まで遡るともいわれています。
神輿の供奉する山車の一種で、
信仰を対象とした神輿渡御の際、その列に参加して厳かに供奉し、
豊年の秋を感謝して氏神に奉納していたものです。

新居浜太鼓1.jpg

新居浜市内には現在総勢51台の太鼓台があります。
1台重さ約3トン、高さ5.5m、長さ12mという
巨大な山車である太鼓台の4本のかき棒には、最大150人余りの男衆がつき、
太鼓台から打ち鳴らされる腹に響く太鼓の音、
かき棒にまたがり太鼓台の運行を仕切る4人の指揮者の笛、
揃いの法被に身を包んだ男衆たちのかけ声によって市内を練り歩きます。

新居浜太鼓2.jpg

太鼓祭り最大の見所である「かきくらべ」では、複数の太鼓台が1ヶ所に集まり、
練り歩く際に取り付けていたタイヤをはずし、かき夫の力だけで動かします。
男衆を鼓舞するように太鼓が早打ちされ、
太鼓に乗った指揮者の絶妙な指示で、太鼓台を肩に担ぎ上げ、
さらに「差し上げ」と呼ばれる両手を伸ばして持ち上げる様を競い合う、
まさしく男衆の力比べ、技比べです。
この男衆の祭りにかける情熱が観衆にも呼応し、人並みに押され、
祭りはまさに最高潮に達します。
「かきくらべ」は、祭り期間中、市内各所で繰り広げられています。

新居浜太鼓3.jpg

ここで太鼓台の歴史をひも解いてみましょう。
太鼓台の起こりがいつであるかはっきり答えられる資料は、
現在のところ確認されていません。
地域の伝承によると、祭礼の時、
神輿に供奉する山車の一種で信仰を対象にした神輿渡御の際、
その列に参加して厳かに供奉し、豊年の秋を感謝して氏神に奉納していたもので、
その起源は平安時代、あるいは鎌倉時代まで遡るといわれています。

太鼓台が記録の上で出てくるのは、江戸後期ことで、
その頃は「神輿太鼓」と書かれることが多かったのですが、
時代を経るにつれて「太鼓台」あるいは
「太鼓」とされることが多くなってきました。

太鼓台の全国的な分布を見ると、瀬戸内海沿岸の港町、
漁師町、あるいは大きな川の輸送拠点に多く見られます。
これは、瀬戸内海の海上交通が古くから盛んで、
物資の流通、文化の交流が活発に行われたことによるものと考えられています。

新居浜太鼓4.jpg

幕末から明治初期の太鼓台は、現在の子供太鼓台くらいの大きさしかなく、
飾り幕も薄めで天幕も現在のような膨らみはありませんでしたが、
別子銅山により産業が起こり、地域経済が発展するにつれて、
太鼓台を所有する地域同士の対抗意識の高まりもあり、
明治中期以降から急激に大型化し、
明治中期から昭和には現在と同じくらいの大きさになり、
飾り幕は縫いの発達とともに豪華に、
また天幕も膨らみを持ったものをつけるようになりました。

しかし、太鼓台の飾りが豪華になり、
大きさも巨大化するということは、その建設費用や、
また巨大な太鼓台を担ぐためのかき夫の力が多く必要になります。
新居浜太鼓台がこれらの問題を克服し、
数多くの改良を重ねて現在に至っていることは、
太鼓台が地域の「財力」と「腕力」の二方向から発展したといえるようです。

新居浜太鼓5.jpg

現在では、瀬戸内沿岸にある数多い太鼓台の中でも、
150人余りの男衆で差し上げられ、澄んだ秋空に舞う新居浜太鼓台の姿は、
その豪華絢爛さ、勇壮華麗なことから「男祭り」の異名を持ち、
毎年約30万人の観衆を酔わせて止まない魅力ある祭りとして、
全国的にも知られるようになりました。

【交通アクセス】
電車:JR予讃線「新居浜」駅からせとうちバス住友病院前行きで約4分。
車 :松山自動車道「新居浜IC」から約3分、「いよ西条IC」より約10分。


田名部祭り(田名部神社:青森県むつ市田名部地区)

田名部祭りは、毎年8月18〜20日に
青森県むつ市にある田名部神社で行われる例大祭で、
青森県の無形民俗文化財に指定されています。
その起源は定かではありませんが、
約380年以上の歴史を持つともいわれています。

田名部祭り1.jpg

かつて田名部は、陸奥湾に停泊した北前船からの荷の積み降ろしが
田名部川を通して行われ、その水運で栄えた町でした。
田名部祭りもまた、山車の形態やお囃子に、北前船の近江商人から
祇園の影響を受けており、「北のみやび」と称されています。

田名部祭り2.jpg

昼は神事として神楽を先導に格式高く威風堂々と、
夜は絵燈籠をともし華やかに、囃子のテンポも速いものへと一変します。
昼と夜、静と動、2つの違った様相を見られるところがこの祭りの魅力です。

田名部祭り3.jpg

祭りは最終日20日の夜、
5台の山車が来年の再会を誓い合う「5車別れ」でクライマックスを迎えます。
5町内(藩政時代の町割)で管理されている5台の山車が十字路に集まり、
来年の再会を誓って酒を酌み交わします。
これを最後に熱気の中で幕を閉じる、地縁の結びつきを今に伝える祭りです。

【交通アクセス】
電車:JR大湊線「下北」駅より車で約10分。
   JR大湊線「下北」駅よりJRバス「田名部」バス停下車、徒歩5分。


熊谷うちわ祭(愛宕八坂神社:埼玉県熊谷市)

熊谷うちわ祭は、7月20=22日、
埼玉県熊谷市街地にあるお祭り広場を中心に開催されます。
3日間で70万人以上の人が訪れ、
関東一の祇園祭と称されるほど賑やかなお祭りです。

熊谷うちわ1.JPG

この祭りは、京都の八坂神社の祇園祭の流れを汲み、
勇壮な12台の山車・屋台がそれぞれのお囃子で祭りを盛り上げます。
特に21日と22日は国道17号が歩行者天国となり、
熊谷は勿論、埼玉近郊からたくさんの人出で賑わいます。

うちわ祭りは京都八坂神社の祇園祭が
夏祭りとして全国に広まったものの一つです。
平安時代「エキリ」と呼ばれる伝染病が流行したとき、
疫病退散の祈祷を行った祇園御霊会が祇園祭の起こりです。
熊谷には1592年頃、京都の八坂神社を勧請し、
その後愛宕神社に合祀されました。

熊谷うちわ2.JPG

江戸時代には、町民から役人へ「夏祭りを各町内一斉に行うように」と
願い出され、それが許可されました。
この頃から現在のうちわ祭りのような形態が作られたと考えられます。

多くの祭りがそうであったように、熊谷の祭りは一層賑やかになり、
各家で赤飯を炊いて親戚に配ったり、商店では仕入れ客に振る舞っていました。
理由は厄除けには赤の色がいいということからだそうです。
いつの間にかそれが祭り見物客にも嗜好されるようになり
「熊谷の赤飯振る舞い」は祭りの名物になっていきました。

熊谷うちわ3.jpg

ある年、泉屋横町にあった料亭「泉州」の五代目主人が、
当時生活必需品だった渋うちわを配るようにしました。
渋うちわといっても日本橋の老舗「伊場仙」製ということもあり、
これが評判を呼びました。
その後、各商店でも買い物客、
取引商人に赤飯の代わりに渋うちわを出すようになり
「買い物は熊谷のうちわ祭の日」と言われるようになりました。
事実、3銭の買い物に5銭のうちわを振る舞ったのが由来だと言われています。

【交通アクセス】
電車:JR高崎線、上越新幹線あるいは秩父鉄道「熊谷」駅北口より徒歩約5分。
車 :関越自動車道「花園IC」より約20分。
 
いかがでしたか。
祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。
長年にわたって受け継がれてきた祭りには、
理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。
たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?
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2015年07月06日

日本の奇祭48「アスムイ・神田祭り」

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。
故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、
外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。
これを世の人は「奇祭」と呼びます。

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」
「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、
奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。
よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り
(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、
ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、
開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。
その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、
祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

特に言う必要はないと思いますが、
以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、
れっきとした郷土芸能であり、
日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

今回は、沖縄県のアスムイと東京都に神田祭りです。


アスムイ(沖縄県国頭郡辺戸地区)

アスムイは、昭和18年ころ途絶えてしまいましたが、
1999年に復活した首里王府お水取り行事です。

執り行われる場所は沖縄本島最北端の辺戸御嶽ことアムスイ(安須森)です。
アムスイは琉球開闢七御嶽のひとつで、
その中でも最初に作られた聖地だそうです。

アムスイ.jpg

行事の内容は辺戸区の神アサギでお水取りの開始、
無地執り行われることを祈願し、大川(アフリ川)でお水を取り、
人々の健康を祈願して、シチャラ嶽(ウガミ)で万国の太平を祈願、
祝女殿内(火の神)で祖先への感謝を祈願の後、
出発式を行い、首里に向けて出発します。

アスムイ1.jpg

沖縄本島最北端にある辺戸の集落の前方に
アスムイと呼ばれている岩山が突き出ています。
最古の歌謡集「おもろさうし」にも次のように歌われています。

 一、あすもりの きりくちの(安須森の 切り口の)
   きみのあまへ きよらておりとみ(君の歌へ 清ら天降り富)

 又、つれのふた(何れのふた)
   つれのまきよ おれほしや(いずれのマキョに降りたいのか)

 又、いじけまきよ(意志気マキョ)
   いじけふた おれほしや(意地気ふたに降りたいものだ)

きりくち(アスムイの別称)の女神が喜び踊り、
美しい天降り富船を浮かべて、どこの村に降りようか、
すぐれた立派な集落におりたいものだ、という意があります。

これはアムスイに神が降りてきたことをうたったもので、
ここで初めて天から神(アマミキヨ)が降りた場所で、
神聖な場所であるとされ、地元では黄金森とも呼ばれています。

アマミキヨは天帝の命によって土と泥で最初に辺土のアムスイを作り、
続いて今帰仁のスムチナ御嶽、そして知念森と沖縄島を次々に作ったといいます。

荒海の辺の渡を渡るさい、航海の安全を祈る女神の鎮座する御嶽として
「おもろそうし」にうたわれています。
土器や石器が出土した宇座浜遺跡やカヤウチバンタ貝塚などがこの御嶽の北、
および西麓にあり、古くから人が住んでいたことがわかります。

このアムスイのふもとを流れる大川は
毎年5月と12月に王府からお水取りの使者がきて、
国王と闇得大君の長寿を祈る若水を首里に送ったと伝えられています。

【交通アクセス】
バス:名護バスターミナルより67番琉球バス交通または沖縄バス辺土名線に乗り、
   辺土名バスターミナルへ、村営バス待合所より国頭村営バスで。


神田祭り(神田神社:東京都千代田区)

神田祭りは、2年に1度5月の第2日曜をはさんで、
約1週間にわたって行われる祭礼です。

神田祭り1.jpg

神田祭りは、江戸総鎮守である神田神社の祭礼で、
赤坂にある日枝神社(山王権現)の祭礼と隔年で行われますが、
共に江戸城に入城し将軍の上覧に供した「天下祭」です。
江戸に幕府が開かれて以来、江戸城入城を許された祭礼は、
神田祭りと日枝神社の山王祭り、根津神社の祭礼以外にはありません。
根津権現の祭礼は1714年に初めて江戸城へ入城しましたが、
その後は入城していません。

神田祭りの起源は記録文書がほとんど残されていないので詳細は不明ですが、
大祭化したのは江戸時代前後のことです。
江戸時代の「神田大明神御由緒書」によると、
江戸幕府開府以前の1600年に徳川家康が会津征伐において
上杉景勝との合戦に臨んだ時、神田神社に戦勝の祈祷を命じ、
また石田三成との関ヶ原の合戦においても戦勝の祈祷を命じられたそうです。
神社の祈祷により天下を統一できたのかは分かりませんが、
9月15日神田祭りの日に家康は天下を統一したのです。
それにより家康は神田神社を厚遇し、社殿、神輿・祭器が寄進され、
神田祭りは徳川家縁起の祭りとして
以後絶やすことなく執り行うよう申し付けられたそうです。

「天下祭」として知られる神田祭りは、
1620年ごろまでは船渡御だったといわれています。
1670年代中頃まで毎年斎行されていましたが、
山王祭(赤坂・日枝神社)と隔年で斎行することになり、
以後今日まで2年に一度斎行されることが恒例となりました。
江戸幕府の庇護を受け、江戸城内に祭礼行列が練り込み、
将軍・御台所の上覧があったことなどから、
江戸の庶民たちがいつからか「天下祭」と称されるようになりました。
また、江戸時代を通じて全国的に有名な祭りの一つとして
「日本三大祭り」「江戸三大祭り」の中に数えられています。

江戸歳時記に描かれた山車の中で囃子が演奏されていますが、
最初からこのようなスタイルだった訳ではありません。
最初は山車の上で太鼓を打ち鳴らすだけでしたが、
1752年の山王祭で山車の上で葛西囃子が演奏されました。
これが好評だったらめ翌年の神田祭りでは山車の1/3ほどが
囃子を乗せて巡行を行い、後に恒例になりました。これが神田囃子のルーツです。

神田祭り2.jpg

明治に入り山車は大幅に減少しましたが、1884年に46本、1887年に40本と、
江戸時代の36本よりも多く出され盛大な祭礼が行われた時もありました。
しかし明治22年を境に不景気と電線架線などの影響から、
山車が出されなくなっていき各町に備え付けられるのみとなりました。
また、1873年に太陽暦に改められ、祭礼の斎行日が約3週間早まり、
台風発生時期に重なってしまったために、多くの山車に被害が発生しました。
このような経過から神田祭りは、1892年から5月に変更されました。

神田祭り3.jpg

大正時代に入ると山車が出されることはほとんどなくなり、
神社の神輿が渡御する「神輿渡御祭」へと変遷していきました。
渡御祭は、数日かけて氏子町々を隈なく渡御する祭りで、
長い日には1週間もの日数をかけて渡御が行われていましたが、
関東大震災・戦争などを経験して、
終戦後に神輿主体の連合渡御に代わっていきました。

平成に入り、諌鼓鶏の山車の復活、相馬野馬追騎馬武者行列の特別参加、
町田町火消行列、将門武者行列、一本柱万度型山車の特別参加、
船渡御の復活やKIXプロジェクト、
インターネットによる神幸祭の映像配信など様々な神振行事を行います。
また、本祭にあたらない陰祭の年にも、
平成16年より大神輿の渡御が恒例化し、賑やかに行われています。

神田祭り5.jpg

現在の神田祭りでは、午前8時に鳳輦・神輿行列が出発し、
途中で加わる附祭を合わせて約300m、
約2000名もの祭礼行列が、神田、日本橋、大手、丸の内、
秋葉原の神田神社の氏子108か町大小合わせて約200基余の山車や神輿が、
約30kmの道程を一日がかりで巡行します。
さらに翌日には、終日、各氏子町会の神輿が自分たちの町々を渡御し、
そのうち約100基の神輿が神田神社へ宮入りするという、
東京屈指の名物祭礼に発展しています。

【交通アクセス】
電車:中央線・総武線「御茶の水」駅(聖橋口)より徒歩5分。
   京浜東北線・山手線「秋葉原」駅(電気街口)より徒歩7分。
   東京メトロ丸ノ内線「御茶の水」駅(聖橋口)より徒歩5分。
   東京メトロ千代田線「新御茶の水」駅(聖橋口)より徒歩5分。
   東京メトロ銀座線「末広町」駅より徒歩5分。
   東京メトロ日比谷線「秋葉原」駅より徒歩7分。
バス:茶51駒込駅南口←→御茶の水線「神田明神」バス停下車、徒歩1分。
車 :首都高速都心環状線「神田橋」出入口
   首都高速1号上野線「上野」出入口
 
いかがでしたか。
祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。
長年にわたって受け継がれてきた祭りには、
理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。
たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?
posted by 旅んちゅ at 09:27| 滋賀 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の奇祭 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月22日

日本の奇祭47「阿波おどり・角館のお祭り」

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。
故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、
外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。
これを世の人は「奇祭」と呼びます。

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」
「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、
奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。
よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り
(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、
ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、
開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。
その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、
祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

特に言う必要はないと思いますが、
以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、
れっきとした郷土芸能であり、
日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

今回は、徳島県の阿波おどりと秋田県の角館のお祭りです。


阿波おどり(徳島県徳島市)

阿波おどりが、盛んに踊られるようになったのは、
蜂須賀家政が1586年徳島県入りをし、
藍、塩などで富を蓄積した頃からだといわれています。

小江戸と呼ばれた徳島で藍商人が大活躍し、阿波おどりを豪華にしていきました。
藍商人が衰退した後も、市民社会に定着し、自由な民衆娯楽として花開きます。
特に戦後の阿波おどりの復興ぶりは目覚ましく、
今では日本を代表する民族舞踊の地位を確保しました。

阿波おどり2.jpg

徳島県内の阿波おどりは、毎年8月9日に開催される
「鳴門市選抜阿波おどり大会」を始まりに、県内各地で開催されますが、
最も賑わいを見せるのが
8月12日から15日の4日間に開催される徳島市の阿波おどりです。
四国三大祭り、日本三大盆踊りの一つに数えられています。
三味線、太鼓、鉦、横笛などの2拍子の伴奏にのって
踊り手の集団が踊り歩きます。
女性は優雅に、男性は腰を落として豪快に踊ります。

阿波おどり3.JPG

阿波おどりの起源についていくつかご紹介しましょう。
築城起源説は、1587年に蜂須賀家政によって徳島城が落成した際、
その祝賀行事として城下の人々が踊ったのが阿波おどりの始まりとする説です。

風流おどり起源説は、阿波おどりの特色である組おどりが、
能楽の源流をなすといわれる「風流」の影響を強く浮けているといわれ、
1663年の「三好記」の中には、
1578年に十河保存が勝端城で風流おどりを開催したという記録に基づいて、
これが阿波おどりの原型とする説です。

盆踊り起源説は、阿波おどりが旧暦の7月に行われた盆踊りであるというもので、
「俄」「組おどり」といった特殊なものが派生してきたとはいえ、
その元は盆踊りであるとする説です。

阿波おどり5.jpg

「偉い奴ちゃ、偉い奴ちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、
踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らな損々・・・」と唄われる
正調「お囃子よしこの」で知られています。
しかし、お囃子よしこのは大手の有名連以外はあまり使われず、
主に「ヤットサーヤットサー」という掛け声のほうが多用されています。

【交通アクセス】
電車:JR徳島駅下車、徒歩10分圏内。


角館のお祭り(神明社・成就院薬師堂:秋田県仙北市角館町)

角館のお祭りは、
秋田県仙北市の角館地域の鎮守である神明社と成就院薬師堂の祭りで、
毎年9月7日〜9日の行われます。
約350年ほどの歴史を持ち、地域の繁栄や商売繁昌、
家族の無病息災などを祈願するもので、
神明社(9月7、8日)と
成就院薬師堂(9月8、9日)の祭りが一緒になったものです。

角館のお祭り1.jpg

この祭りには、各町内から武者人形や歌舞伎人形を乗せた
18台の曳山が曳き回されます。
7日には曳山が神明社へ参拝に向かい、
8日には武家屋敷を通り抜けて佐竹北家当主への上覧に向かいます。
8日と9日には薬師堂に上がります。

18台の曳山には、笛、大太鼓、小太鼓、鼓、摺り鉦、
三味線などにより「お山囃子」を奏する人たちが乗り終始囃し、
秋田おばこたちが艶やかに手踊りを披露します。
若者たちは、神明社・薬師堂への参拝、
佐竹北家への上覧などを目的としながら山車を曳き回します。

角館のお祭り5.jpg

参拝や上覧に向かうのが上り山、
参拝後に曳き回されるものが下り山とされています。
曳山の運行には厳格な決まりがあり、参拝を終えた曳山「下り山」は
参拝に向かう曳山「上り山」に道を譲らなければなりません。
この相手の曳山と話し合うことを「交渉」といいますが、
参拝が済んだ曳山同士がはち合うと
優先権がなくなるので交渉しても決裂してしまいます。

角館のお祭り2.jpg

9日夜半を過ぎると18基の曳山は横町十字路、
立町十字路を中心に町中の至る所に散らばり、
通行権をめぐって交渉する曳山が増え、
決裂すると力と力のぶつかり合い、
「本番」と呼ばれるやまぶっつけが始まります。
各曳山の動きを読みながら作戦を練り、宿敵の曳山を有利な位置で捉え、
交渉、駆け引きを経て激しいやまぶっつけの本番が始まります。
兄弟曳山同士で挟み撃ちにしたり、2基の曳山がぶつかったり、
人手を貸すこともあります。
相手の曳山の上に乗っかって押したほうを勝ちとし、
その勝敗は翌年まで尾を引くほど、
その町内意識・対抗意識は半端ではありません。

角館のお祭り4.jpg

また、各町内の囃子方が奏でるテンポの良い飾山ばやしと、
秋田おばこによる優雅な手踊りも見どころの一つです。

【交通アクセス】
電車:JR秋田新幹線・田沢湖線もしくは秋田内陸縦貫鉄道「角館」駅からすぐ。
車 :秋田道「大曲IC」から国道105号線経由で30q、40分。
 
いかがでしたか。
祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。
長年にわたって受け継がれてきた祭りには、
理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。
たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?
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